南都北嶺
読み方:なんとほくれい
「南都北嶺」の意味
「南都北嶺」は、奈良と比叡山、特に奈良の興福寺と比叡山の延暦寺を一組にしていう言葉です。
中世史では、両寺を中心とする有力な仏教勢力を指す場合もあります。
「南都北嶺」の語源・由来
「南都北嶺」は、中国古典の故事から生まれたものではなく、日本の二つの地域・仏教拠点を表す「南都」と「北嶺」を組み合わせた語です。
「南都」は、平安京に都が移ったあと、京都に対して南方に位置する旧都の奈良を呼んだ名称です。
のちには奈良の寺院勢力、とりわけ興福寺を指す場合もありました。
「北嶺」は比叡山の別称で、寺院を指す場合には延暦寺を意味します。
平安時代後期以降、興福寺と延暦寺は寺社勢力として大きな政治的・社会的影響力を持つようになり、この二つをまとめて「南都北嶺」と呼ぶ用法が定着しました。
現在と同じ四字の形がいつ成立したのかは明確ではありません。
「南都北嶺」の使い方
次のような形で使われます。
- 「南都北嶺の〜」
後ろに、そこに属する僧や寺院勢力などを続けます。「南都北嶺の僧徒」「南都北嶺の寺社勢力」などの形です。 - 「〜を南都北嶺と呼ぶ」
興福寺と延暦寺、または両寺を中心とする勢力を一組にして述べるときに使います。「両寺を南都北嶺と呼ぶ」などと続けます。
「南都北嶺」の例文
- 院政期の政治を学ぶには、南都北嶺と朝廷との関係も押さえておく必要があります。
- この論文では、鎌倉時代における南都北嶺と新しい仏教勢力との関係が論じられています。
- 中世の寺社が持っていた政治的な力を考えるとき、南都北嶺は重要な手がかりになります。
「南都北嶺」の古い用例
鎌倉初期の成立とされる『保元物語』の金刀比羅本には、
「南都北嶺の衆徒逆悪に帰し」
とあります。
「南都北嶺の衆徒」という形で、両地域の僧たちをまとめて指しています。
この用例は1220年ごろのものとされています。
親鸞の没後20~30年ほどたった鎌倉時代中期ごろに成立したと推定される『歎異抄』第二条にも、
「南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち」
とあります。
ここでは「南都北嶺」に「にも」を続け、仏教を学ぶ僧たちがいる場所・寺院社会をまとめて示しています。
参考文献・出典
- 新村出編『広辞苑』第七版、岩波書店、2018年。
- 飯間浩明編『小学館 四字熟語を知る辞典』小学館、2018年、「南都北嶺」項。
- 小学館国語辞典編集部編『精選版 日本国語大辞典』小学館、2005~2006年、「南都北嶺」項。
- 『山川 日本史小辞典 改訂新版』山川出版社、2016年、「南都北嶺」項。
- 文化庁「文化遺産データベース」重要文化財「歎異抄」。
- 真宗大谷派『真宗聖典』所収「歎異抄」第二条。
